Advertisement

記事内にPRが含まれる場合があります

暇がないって言いたくなくなる本|大人にも良書の『モモ』ーある主婦目線からの感想

暇がないとは言いたくなくなる本|大人にも良書の『モモ』ー主婦目線からの感想

ミヒャエル・エンデ の『モモ』、子どもの頃に読んだ方も多いのではと思います。
私は初めて読みました。
こんなに大人にも響く物語だとは、思ってもいませんでした。


{tocify} $title={Table of Contents}


スポンサーリンク


はじめに

ハリーポッターシリーズ全7巻と、その関連書籍キンドル・アンリミテッドで読んでいたとき、”こちらもおすすめの本”として、『モモ』(ミヒャエル・エンデ 著)がずっと表示されていました。

正直、あまり気が進まなくて眺めているだけでしたが、ちょうど気楽なものが読みたいタイミングで開いてみることにしました。

いざ読んでみると、思っていた内容と全然違っていて、楽しいし、だけど読みながら少し心が痛む本でした。

岩波少年文庫の本ですが、大人にとっても良書だなと思いました。子どもの頃読んだとしても、大人になってからもう一度読み返したら、また感じるものがあるのではないかなという気もします。

2024年11現在、キンドル・アンリミテッドのリストにはもうありませんでした。好きだったので、また読めるようにと購入してしまいました。


簡単なあらすじとその後ろにあるもの

モモ』の簡単なあらすじは、こんなふうです。


主人公は、家族やおうちのない、モモという女の子。周りの大人たちでさえ、モモに話を聞いてもらいたがるような、不思議な魅力を持っている子どもです。

あるとき、人間から時間を泥棒したい「灰色の男たち」が現れて…。

モモの周りの人たちも次々に時間を奪われていき、それが原因で、みんなどんどん人が変わっていってしまいます。

そんなのはイヤだ、人間たちの大事な時間を取り戻そう、と立ち向かうモモ。


多分、内容については概ねこう書かれていることが多いから、「ふーん、時間泥棒と戦う女の子のお話なのね」ってなると思います。というか私は、ずっとそう思っていました。

ひとりの女の子の冒険物語、別にそんな興味はないかなぁって。だから子どもの頃から、存在は知りつつ、ずっと読んでいませんでした。

だけど、声を大にして言いたいです。全然違いました。確かにあらすじを書けばそうなるけれど、背景にあるものが大きかった。良書として、私でも名前を聞いたことがあるはずのことはありました。

何でも、自分で読んでみてから、試してみてから、判断しないといけませんね。

時々忘れがちなので気をつけよう


簡単な感想

本を読んでいる途中も、読み終わってからも、これって本当に子ども向けの本なのかなぁって何度も思いました。

子どもの頃にこの本を読んで、ちゃんと理解して、理解したことを大切にする大人になっていたら、どんな人生になっていたかな。

大人になってしまった今の私が読むと、ときに心が痛かったです。何に心が痛むのか、本に出てくる言葉とともにみていきたいと思います。


モモに出てきた言葉(名言)

心が痛いって思ったのは、例えばこんなことでした。


ひまがない

物語の中で、大人たちがだんだん、「ひまがない」「いそがしい」をたくさん口にする人間に変わっていきます。

毎日毎日がますますはやくすぎてゆくのに気がついて愕然とすることがあっても、そうするとますます死にものぐるいで時間を倹約するようになるだけでした。

余暇の時間でさえ、すこしのむだもなくつかわなくてはと考えました。ですからその時間のうちにできるだけたくさんの娯楽をつめこもうと、もうやたらとせわしなく遊ぶのです。

ニノのお店のレジでも。

「おい先頭、ぐずぐずするな!」

こればっかりは、アメリカに住むようになってから、気長に待てるようになりました。アメリカのお店でレジ待ちをしているとき、前の人が店員さんとたくさん話していて、なかなか前に進まないことって時々あるので。

そして、とうとう子どもたちまで。

「もうぼくたち、時間をむだにできないのさ。」

子どもがそんなふうに過ごしているのを読むのも、胸が痛みました。できるだけ、ゆったりした時間を過ごしてもらえるように、育てていきたいものです。

ネタバレになりますが、最後のここは救いでした。

人びとは足をとめてしたしげにことばをかわし、たがいのくらしをくわしくたずねあいました。仕事に出かける人も、いまでは窓辺のうつくしい花に目をとめたり、小鳥にパンくずを投げてやったりするゆとりがあります。

できれば、そんなふうに時間を過ごしたいものです。


訪問者の記憶は消えてしまう

人間から時間を盗む、灰色の男たちについて。彼らの訪問を受け、話をした人間は、

頭のなかから灰色の訪問者の記憶もすっかり消えていました。

いまではじぶんひとりきめた決定のように思えました。

こうなってしまうのです。

こんなふうに、大事なことを無意識に (変な方向に) 決めてしまっている、そんなことってあるんじゃないかな。そう思うと、ただの子ども向けの本とは思えませんでした。

灰色の男は、こんなアドバイスまでしてきますから。

「ひとつ、いい助言をしてやろう。あまり深刻に考えないことだ。」

こわいことです。

深刻に考えた方がいいこと、考えないでいいこと、もちろん両方ありますが、「単に人に流されたり考えるのをやめたりする」のは、「灰色の男が来た」という例えがぴったり。

(言ってしまえば、考えているつもり、というのもこわいんですけどね。)

マイスター・ホラの言う通り、

「人間はじぶんの時間をどうするかは、じぶんできめなくてはならないからだよ。だから時間をぬすまれないように守ることだって、じぶんでやらなくてはいけない。」

無意識の訪問者に負けず、自分できちんと上手に時間を使えるようにしたいものです。


良心に反する仕事

また、こんなニコラのセリフがありました。

「まっとうな左官屋の良心に反するような仕事をやってるんだ。」

時間や効率に追われると、また、お金のためだけに仕事をしていると、どうしてもしわ寄せがくる部分も、あるときはあるかもしれない。

そして、多分ですが、普通であればそんな自分は嫌だと心のどこかで分かっているはず。そう思うと、心が痛むし、もはや嫌だとも分からなくなったとしたら、それはもっと心が痛みます。


遊び方をならう子どもたち

大人たちが変になり、とうとう子どもまでこうなります。

この子たちのほとんどは、まるっきり遊ぶということのできない子なのです。

そしてじぶんたちのすきなようにしていいと言われると、こんどはなにをしたらいいか、ぜんぜんわからないのです。

”何をしたら分からない子”に育てないよう、心をくばりたいものです。だけど、虫取りもできない私じゃ説得力ないなと。はぁ私もがんばらないと。


また、灰色の男たちが街を支配するようになってしまった頃、子どもたちとモモのこんなやりとりがありました。

「遊戯の授業さ、遊び方をならうんだ。」

「そんなのがおもしろいの?」

「そういうことは問題じゃないのよ。」

「じゃ、なにがいったい問題なの?」

「将来の役にたつってことさ。」

考えさせられました。


たいくつなおもちゃ

子どもたちが、そんなものをつかってもほんとうの遊びはできないような、いろいろなおもちゃをもってくることがおおくなったのです。

子どもたちは何時間もじっとすわったきり、

せわしなく動き回るおもちゃのとりこになって、それでいてほんとうはたいくつして、ながめてばかりいます。けれど頭の方はからっぽで、ちっとも働いていないのです。

情けないですが、”ほんとうの遊び” ができる子に育てたいけど、どこまで出来るだろうか、、とも思ってしまう自分がいたりします。


人間じしん

「この世界を人間のすむよちもないようにしてしまったのは、人間じしんじゃないか。」

これは、灰色の男のセリフです。この言葉はむしろ、大人になった私ににとって、すごく響く言葉ではなくなってしまっているような気がしました。どこか、しょうがないと思っている自分がいるというか。

子どもだった頃、若かった頃なら、もっと響いたかな。それがちょっとさみしかったです。


スポンサーリンク


名言

他にも、心に残る言葉はいろいろあったので、少し書いておこうと思います。

時間とは、生きること、そのものなのです。そして人のいのちは心を住みかとしているのです。人間が時間を節約すればするほど、生活はやせほそっていくのです。

「いちどに道路ぜんぶのことを考えてはいかん。わかるかな?つぎの一歩のことだけ、つぎのひと呼吸のことだけ、つぎのひと掃きのことだけを考えるんだ。いつもただつぎのことだけをな。(省略)。するとたのしくなってくる。これがだいじなんだな、たのしければ、仕事がうまくはかどる。こういうふうにやらにゃあだめなんだ。」(ベッポ)

「人間はひとりひとりがそれぞれじぶんの時間をもっている。そしてこの時間は、ほんとうにじぶんのものであるあいだだけ、生きた時間でいられるのだよ。」(マイスター・ホラ)

「光を見るためには目があり、音を聞くためには耳があるのとおなじに、人間には時間を感じとるために心というものがある。そして、もしその心が時間を感じとらないようなときには、その時間はないもおなじだ。」(マイスター・ホラ)

「時間というものには、はじめがあったいじょう、おわりもある。だが、おわりは、人間がもはや時間をひつようとしなくなったときに、はじめてやってくるのだ。」(マイスター・ホラ)

「アサゴハンヲ タベルコト!」 (カシオペイア)

「いぜんのおまえは、貧乏人ジジのかっこうはしてても、ほんとうは王子ジロラモだと夢想していた。いまはどうだ?王子ジロラモの扮しただけの貧乏人ジジさ。」(灰色の男)


モモの親友ベッポと養老孟司さん

登場人物の一人、モモの親友ベッポは、道路掃除夫のおじいさんです。

世の中の不幸というものはすべて、みんながやたらとうそをつくことから生まれている、それもわざとついたうそばかりではない、せっかちすぎたり、正しくものを見きわめずにうっかり口にしたりするうそのせいなのだ。

という考えをもっているため、

ときには二時間も、場合によってはまる一日考えてから

じっくり考えて返事をする。 そんな人です。

この描写を読んで思い出したのが、『養老孟司の人生論』という本でした。養老孟司さん、謙遜も含まれていることと思いますが、ご自身のことをこんなふうに書かれていて。

じつは私は、ものごとの理解が遅いんです。(省略)。いまでも他人のいったことを、一年間考えたりするんです。

だから会議では意見を言わなくなる。教授会で意見をいったのは、十三年の中で一回だけですからね。なにしろ一年考えて、それからやっと返事ができるんですから。

答えは自分なりにはわかっていることもあるんですよ。でもそれが言葉にならない。そのときは、まだ他人に上手に伝えられないんです。ある問題について、その周囲をできれば全部、考えようとする。私にはそういう癖があるんです。


ベッポには申し訳ないけれど、質問される内容がきっと全然違うとは思います。だけどとにかく、ベッポのことを読んで、養老孟司さんの教授会のことを思い出してしまった、というお話でした。

地位のある人がこんなふうに話してくださるのは、世の中にとってありがたいことだなと感じます。彼のような人であれば、一般的に、立派な個性と認められると思うので。

普通の人であっても、ある程度は個性と認めてもらえるような社会であれば、より多くの人が生きやすくなる気がします。


スポンサーリンク


「そうは言ってもね」

この本を読んで、多分ですが、一般的な社会人だったらやっぱり「そうは言ってもね」「現実的にはね」そう言いたくなるかなと思って。

というか、自分が社会人だった頃を思い出すと、まぁこの本のいいたいことも分かるけど、大人の社会では「そうは言ってもね」って思ったかもしれないな、と。


会社員を経験した「主婦」という立場から

そう思うと、あの頃の自分には、今ほど『モモ』の良さが分からなかったかもしれません。

今思えば、会社員だった頃は、社会人として、とりあえずちゃんと一つの歯車になろうとしていたというか。たとえ理不尽なことがあっても、社会ってこんなものなんだろうな、って思うことにしていたし、仕事を頑張ることが大切で、あまり自分の時間を大切に出来ていませんでした。

もちろん、うまくやりこなせてる人もたくさんいると思うので、不器用だったのだと思いますが。


会社員を辞めた今は、いわば、社会人としては少々ドロップアウトしている身。主婦として、お金を稼いでいる訳ではないということから、どこか社会の完全な一員になりきれてはいないように感じているのかもしれません。

自分はちゃんと社会に属していないという意味では、モモの立場に近くて、だからモモの目を通して見る社会がより理解しやすいかもしれないです。離れているからこそ見えるものもあるような気がするというか。

それに、一度、灰色の男たちがいるような世界を経験し、そこを抜けて、時間が経ち、今があり、過去の自分を客観的に見られるようになったから。

だからこそ、『モモ』の良さを余計に痛切に感じられるようになったのかな、とも思います。

そう考えると、主婦を経験したことも、自分の人生にはいいことだったのかもしれないと、やっと言えそうです。

そして。

正直に書くと、「そうは言ってもね」に続く言葉って、私には多分、居心地のいい言葉達ではありませんでした。

「あー、私は完全に染まってしまわないでよかった」って、しみじみと何度か思ったことがあります。

私にはあまり居心地はよくない、とまだ思えるうちに、一旦社会人をやめてしまえたことは、自分にとってはありがたい出来事だったかもしれません。

辞めた後、私はなーんにもできない、ってどん底の気分に落ちた時期があったのも確かですが。


会社を辞めないと分からなかった

わたしは多分、残念ながら、辞めないとこういうことが分からなかったというか、腑に落ちなかった人間でした。

だけど、辞めなくても、ちゃんと「大切なこと」が分かる人には、分かると思います。灰色の男たちの存在とは無縁に生きていける人も、きっとたくさんいることでしょう。

私のような人間は、せめて、ジジのように

「もどりたくても、もうもどれない。」

と口にする前に、大事なことが書かれている本を今読めてよかった、と思うことにしておきます。

戻れないところまで行ってしまうと、モモの言うように、

ジジになんとかしようという意思がぜんぜんないいじょう、力になってあげようにも、モモにはどうしていいかわかりません。

「あのニノじゃ、花や音楽のことを話してあげられないわ。」

そうなってしまうから。

戻れないところと思われるような、遠いところまでいってしまった人には、本当に残念なことに「もう私にはどうしていいのか分からない」とならざるを得なくなってしまう。

こちらが出来るのは、期待はせず、分かるといいねと思いながら待つだけなのかな、と。私はだいぶ大人になってから、というか、最近、体験して知りました。

モモは本質を見ることができる、大人な子どもですね。

話は戻りますが、私自身は、また社会に復帰することがあったら、灰色の男たちに時間をあげてしまうような人生ではなく、仕事と家庭とプライベートを、大事なものを見失わない程度に、できるかぎりコントロールしていきたいです。

「そうは言ってもね」という言葉はあまり言いたくない。そんな人に、私はなりたいな。


スポンサーリンク


ドイツと日本でよく売れた

記事を書くにあたり「モモ」のウィキペディアを見たら、

日本での発行部数は本国ドイツに次ぐ

と書かれていました。

ふと思ったのですが、両方、A型が多いとか、気質が似ているとか言われている国ですよね。そんなことも関連しているのでしょうか。そんなことを、ちらっと思いました。

*調べてみると、似てないと書かれている記事も多かったですが

というのも、若い頃に旅行したことのある、経済的に発展していない国の人たちを思い返してみると、灰色の男たちの存在や、モモの言葉は、なんか当たり前すぎることのような気がしてきたり。

楽観的な人が多そうな国の人たちにとっては、「そんな真剣に考えること?」って思うかもしれないな、と思えてきたりして。生きることを楽しんでいて、灰色の男が来る隙がない感じがするから。

アメリカに約10年住んでいますが、アメリカのこともよく分かっていないくらいだし、他の国もほんの少し旅行に行ったことがある程度。なので、繰り返しますが、ただふとちょっと思った、というだけのことです。


子どもにも読んでもらいたい理由

この本は、ぜひうちの子どもにも読んでもらいたいな、と思っています。

まず高学年くらいになったら、一度読んでもらいたいかな。その後、中高生くらい、就活前、社会人になって何年も経ってから。少なくとも人生で4回くらいは読んでもらいたいかもしれません。

もちろん、押し付けたくはないし、何を受け取るかは本人次第。何も受け取らないかもしれないし、受け取るかもしれないし、受け取ることは毎回違うかもしれません。

だけど、この本には、見失ってほしくない本質がある気がして、そこに触れていてほしいなと思って。

技術の進歩も、時代の流れも、決して否定するわけではありません。もちろん、恩恵もたくさんありますし。だけど、ただただ流されるのではなく、自分なりにうまく時代と共存していってほしいというか。


それに、モモのまっすぐな心、いざというときの勇気、モモの親友・友人たち、彼らの弱さやもろさ、彼らとの交流などを通して、得られるものを吸収してもらえたらと願います。


この本を読んで、「それだけでは生きていけないのだよ」と言いたくなったとして、その気持ちも分かるし、そういいたくなる時もあるでしょう。

だけども。

例えば人生の終わりが見えた時に。どんな生き方がよかったかといえば、きっとモモが大事に思う方の生き方なのではないかな、となんとなく思ったりしているので。

やっぱり、大事なことは大事なんだよ。そう思うときもあるはず。

子どもには、できれば、そちら寄りの気持ちで人生を歩んでほしいな、と思っています。


スポンサーリンク


まとめ

本記事では、ミヒャエル・エンデの『モモ』を読み、感想を書いてきました。ファンタジーとして楽しむもよし、心にひっかかるものがあればそれもよし、な本だと思います。

私は、「時間がない」と口にしそうになったら、灰色の男のことを思い出そうと思いました。

子どもだけでなく、大人にもおすすめの本でした。


*今回読んだ本*

モモ (岩波少年文庫)ミヒャエル・エンデ (著), 大島 かおり (訳)、岩波書店

キンドル・アンリミテッドでは無料で読むことができます(2023年4月現在 )。初回30日間は無料です!


*他には、こんな本を読んでいます*